
バンドプレス 代表
らいぞう
<経歴>
- 形式的なメジャーデビューを果たしたバンドから脱退し、一旦社会人へと身を引く
- サラリーマン時代に金銭的自由、経済的自由を求めてネットビジネスに参入
- 30万円のTwitterアフィリエイトスクールを始めとする2〜10万円程度のビジネス教材を買い漁る
- 投資額およそ200万円弱。決してムダではなくスローペースに知識をインプットしていく
- 2017年の12月、今まで培ってきた実践がようやく実を結び、メルマガ経由で3万円の教材の初成約
- 一気に視野が広がり、コンサルティング、教材販売に注力し、成功者を排出していく
<現在運営しているスクール、教材について>
- 30代から始める!ゼロからシンガーソングライターを目指すギターレッスン
コロナ禍の影響か、30代と書きましたが40代、50代といった年齢層の「新たにギターを始めてみたい人」が増えてきています。
「ギターを弾く」だけならYouTubeを見ればそこそこなんとかなります。
が、実際に当レッスンに通うことで得られるものは「即興性」「プロが実際に用いるプレイフォーム」「作曲をはじめとするギタリストに必要な再制限の音楽理論」など、ギターを弾いて将来的に自分で作詞作曲していきたい、ステージでカッコよくギターを弾きたい!そんな人のためにピンポイントで必要なものだけをアドバイスしています。
- バンドマーケティング2.0
バンド活動に「マーケティング」を取り入れ、音楽のファンを増やし、音楽で生活していくために必要なマーケティングスキルがマスターできる教材。
僕は19歳から本格的にバイト兼バンドという人生を歩みだしました。
当時の僕のように「バンドマン」というアイデンティティを持った「フリーター」は今もなお減ることなく存在しています。
才能があるのにお金がない、集客できないという理由で音楽を諦めなければならない人に本当に必要なものを提供します。
さて、ここからは「らいぞう」ってどんなやつなの??
僕がここまでどのようにして生きてきたのか?をすべてさらけ出していきます。
先に言っておきます、長いですよ!笑
ひとつの書籍のつもりで面白おかしく読んでくれたらウレシイです。
幼少期〜中学生時代

東京で生まれ、埼玉県で育てられたガキンチョ時代。
兄弟はおらず、父親は自営業、母親は看護師。
毎日起きたら祖母しかいないような毎日。
振り返ってみると、祖母の顔が真っ先に思い浮かぶほどの「おばあちゃん子」だった。
特段何か音楽の英才教育を受けていたワケでもなく
至って普通の「凡人」といえる生活。
とはいえ、両親が共働きだったこともあり一人っ子だったこともあり、欲しいものは何でも買ってもらえた裕福な家庭だったように思える。
特に当時は「ファミコン」が大人気でそれに乗じて僕もゲーマーの一人だった。
当時人気だったドラクエやファイナルファンタジーを筆頭に、ただただゲームが大好きで運動音痴などこにでもいるガキだった。
とはいえ僕にはどことなく「虚無感」を感じたまま生きてきたのをハッキリと覚えている。
なぜなら、一人っ子であること、ムダに欲しい物が何でも手に入っていたこと、
そして両親が家に帰ってもいないこと。
こういった環境が、周りの友だちと比べて何かオカシイと感じていた。
やはり友だちとの環境のズレがあってか、
周りに溶け込めない状況があったり、ときにはイジメに遭ったり逆にイジメをしたり、
中学が終わりかける頃には少しずつ自分自身への不満が湧き上がってきていたのを今でも覚えている。
今でも鮮明に覚えているのがこれ。
小学生のとき、「警泥(ケイドロ)」と呼ばれる遊びがあった。
これは友だち何人かで集まり、警察役とドロボー役に分かれる鬼ごっこのようなものだ。
6人位で遊んでいた。
おもちゃの拳銃はたしか2〜3個しかなかった。
僕はどっちの役なのかも決めてもらえず、
ただ何となく周りが逃げ回っているから自分も一緒になって逃げ回っている。
しかし、誰も僕を捕まえようとしてこないし、誰かが僕から逃げようともしてこない。
いわゆる「空気的な存在」にさせられながらも、
必死に友だちの輪に混ざろうと必死によくわからず逃げ回っていた。
すっごく悲しかった。
「もうヤダな、帰りたいな」
「でも言い出せないな」
・・・と思っていたとき、なぜか祖母が迎えに来た。
どうやってココで遊んでいるのか知ったのかわからない。
けど、祖母に抱きついて人目も気にせずワンワン大泣きして家に帰ったのを覚えている。
この思い出からだろうか。
僕は「イジメ」というものにとても敏感になっていった。
「あ、これイジメに遭う前兆かもしれない」とか
「あ、俺が今やってること、イジメじゃないか」とか
そういう、ある種「場の状況を読む」ということができるようになったのかもしれない。
そんなガキンチョのまま、中学へと進学。
初めて「先輩・後輩」という縦社会を体験する。
当然「イジメ」のハードさも小学時代とは段違いに上がってくる。
僕は類に漏れることなく、イジメに遭う。
ときにはまるで仕返しの如くイジメをする側に立ってみたり、
正直何の取り柄もない、少しだけ勉強ができる程度の学生でしかなかった。
高校時代

進学校だったため、高校は中学のエスカレート式。
当然メンツは変わらない。
高校から入ってきた人間が増える程度だ。
中学時代は前述したとおりだったので、高校行ったって何も得られるものは無いと思っていた。
好きな女の子がいても何も行動できなかったし
ゲーム好きな友だちとヒッソリと机を囲って遊んでいた日々でしかなかった。
ただ、僕の中で確実に1つあったのが
「高校という青春時代は人生で1度きりの最高の時代」という気持ち。
僕の中で、何かしら自分を変えようと必死に試行錯誤していたのを覚えている。
そんな気持ちからか、何か自分を変えたい、新しい何かを始めたい。
なんなら「青春時代にふさわしく、女子にモテたい」というわかりやすい気持ちが芽生えてきていた。
そんな高校生活に入って1年目の頃。
そして僕は、何故かは未だにハッキリわからないが「ギターの通販広告」に目が行った。
毎週買っていたジャンプ裏なんかによく広告が載っていた、ソレである。
金も持ってないクセにそのギターを着払いで買ってしまった。
(お年玉の貯金が貯まってはいたものの自分の意志でこんな高額なものを買っていいか判断できていなかった)
たしか19,800円。
今思えば、クソみたいな仕様のギターと
もう断線してるだろ?と言わんばかりのグチャグチャに巻かれたシールド。
よくコレを「アンプ」と呼んだな?と言いたくなるような小型アンプ。
そして初心者にはハードルが高すぎる「音叉」が無造作にポンと投げ込まれたカッコウで家にギターが到着した。
とはいえ、当時の僕からしたら衝撃そのものだった。
想像以上にデカイ。笑
なんか新しい「木のいい匂い」がしてくる。
弦に振れると音が鳴る。
なんだこれは・・・!!
こんなシロモノ、俺が弾けるわけなくないか??
というのが率直な感想だったのを覚えている。
つまり、ギターを目の当たりにした瞬間に諦めようという気持ちが5%ほど芽生えていたことになる。
しかし、普段2〜3万もするゲーム機を買ってもらうのには何の躊躇もしないクセに、
「買ってしまった以上は弾かずに終えるワケにはいかない」という強迫観念のようなものが湧き上がっていたのを覚えている。
両親(というか母親)は勝手に通販で買物をしたことを咎めるよりも先に
「あんたギターなんか始めるの?いいじゃない」と褒めてくれた。
当時の僕はマジのマジで「ギター」の「ギの字」もわかっていない。
どうやって弦を押さえるのか?
このネジみたいなのは何なんだ?(ペグです)
そもそも音程が弦によって違うけど、何の音に合わせたら正解?
っていうか合わせ方はどうやんの??
・・・書いてて恥ずかしくなってくるくらい、
今、自分がよく教えている「初心者さん」の10倍以上は無知の初心者だった自信があった。
母親としても、息子が新しい趣味に目覚めたことが喜ばしかったのか、どういうツテか知らないが音楽を仕事にしている人を紹介してくれてその人の家まで行き、ギターを教わるという生活が月に1〜2回ほど始まった。
結局数回学びに行ったものの、
そもそも自分が何を弾きたいかもわかっていない、
ギターが鳴る音楽、いわゆる「ロックサウンド」に出会ってもいない、
ただ何となくギターを買ってしまった僕にとって、楽器のレッスンは正直楽しくなく苦痛であった。
高校時代2

さて、このままギターをもう諦めるのだろうか?
結局こうやって僕は新しい挑戦もサッサとやめてしまうのか?
そんな気持ちも少なからず秘めつつも、一旦ギターを弾く日々が中断される。
しかし周りの友だちも僕と同じく「青春時代を楽しみたい」という気持ちを持っていた仲間たちだ。
当然のことながら、好きな女子の話題から始まり、どうやったらモテるか?
何か新しいこと始めたほうがいいのか?
友だちと一緒に試行錯誤しつつ、部活に入ったり、夜はゲーセンに行ってみたり、友だちの家に泊まりに行ってワザと深夜まで起きてみたり。
こういうムダな「新しい挑戦」がいちいち楽しかった。
そこで一人の友だちが僕がギターを持っていることを知り、声をかけてくれる。
「おい、X JAPANって知ってる?LUNA SEAは?俺大好きなんだよね」
当時の音楽業界は小室哲哉プロデュース一色といっていいくらいの時代。
僕も流行っているからという理由もさることながら、メロディとしても小室哲哉系の曲が好きだった。
X JAPANやLUNA SEAといったロックサウンドはむしろ嫌いだったように思える。
しかしギターを弾くためにはギターがモロに鳴っている曲じゃないと弾いている気がしない。
「仕方なく」という言葉が一番しっくりくる形で、僕は友だちから教わったLUNA SEAの曲を練習するようになっていった。
ここで初めて、僕は「バンド」という存在を知ることになる。
どうやって曲が普段耳にする形で聴こえてくるのかというアンサンブルの仕組みだ。
きっかけが「友だちの一言」ということを書いていて改めて思い出してみたが、運が良かったと言わざるを得ない。
僕にLUNA SEAを教えてくれた友だちも、僕に影響されてか楽器を始めることになる。
「お前がギターだし、俺ベースでもやるわ」
たぶん、バンドを始めるにあたって最もありがちな理由から、友だちもベースを始めることになる。
(この友だちを以後「アユム」としよう)
ここからだ。
ここから僕の道筋が大きくズレ始めていく。
僕とアユムは高校では決して目立つタイプのグループではない。
むしろイジメられる側のヒッソリ暮らしているタイプのグループに属していた。
よって、僕らは高校内でバンドメンバーを集めようという決断は一切なく、完全に外部からメンバーを探し出そうという結論に至る。
こうして僕とアユムは、「LUNA SEAのコピーバンドと数曲のオリジナルでライブをやる」という目標を持って、高校2年後半あたりから様々な人間と会っていくこととなる。
今思い返してみれば
こんな若い段階で見ず知らずの人間と何十人と会ってきたことは、間違いなくプラスだっただろうと感じる。
僕が今たくさんの人をコンサルティングをしていく中で、相手の表情や話し方なんかでどんなタイプの人なのか割とすぐわかるのも、こういう過去が手助けしてくれていたんじゃないかと感じている。
高校時代3

僕らのメンバー探しの旅は高校2年から始まって卒業に至るまで続いた。
今記憶を遡って思い出してみると、とてもあの量を1年ちょっとで実行していたかと思うと尊敬に値するレベルだ。笑
僕とアユムは、音楽雑誌に必ず載っている「バンドメンバー募集」というコーナーを穴が空くほど読み漁り、二人で一致した相手には片っ端から手紙を書き、連絡を取り、実際に会う。
僕は埼玉県、アユムは東京の町田。ほぼ神奈川だ。
お互いがこんなに遠いのに、バンドメンバーに会うときはどこにだろうと迷わず向かっていた。
大げさじゃなく、たぶんこの1年半余りで100人近い人間と連絡を取り合ったと思う。
そして紆余曲折ありまくったものの、ようやく「ライブ」までこぎつけることができた。
12月26日、渋谷の某ライブハウス。
初めてのライブハウスで初めてのライブ。
僕とアユムはもはや緊張やワクワクや不安、ありとあらゆる感情が混ざりまくっていたと思う。
1曲目が始まって、照明が僕らを照らす。
前を向くと大勢の観客が見てる。
あ、リハーサルじゃない。
俺今本番のステージに立ってる・・・!
とてもじゃないけど前を見れない。
とてもじゃないけど他のメンバーを見れない。
僕は普段家で好きなギタリストの真似をしながらカッコつけて弾いていたのを思い出し、緊張を隠すために必死で頭を振ってカッコつけて弾いていた。
・・・
・・・
そんなこんなライブが終わり、
僕は今までの人生で味わったことのないテンションに見舞われる。
「アユム、俺高校卒業したらバンドやるわ」
「一緒にメジャーデビューしようぜ」
もうわかりやすくて笑えるほど、初ライブのテンションに飲み込まれた高校3年生だ。
もう、悩むことなく率直な気持ちがこのセリフだった。
高校卒業〜地獄のフリーター時代

当然のことながら両親には猛反対された。
「音楽でデビューなんてほんの一握りなのよ!」
誰もが言われたことがあるだろうセリフだ。
しかし僕は自信たっぷりだ。
「いいや、俺なら余裕でやれる!」
当然ベースはアユムを誘って一緒にフリーターをしながらバンド活動という人生をここからスタートすることになる。
なぜ僕が自信たっぷりだったのか?
今思えばシンプルに「何もわからなかったから」という理由にほかならない。
きっと、当時のメジャーデビューがどれだけ難しくて闇深いものか知っていたら、怖気づいて今の僕はいなかったと思う。
高校を卒業し、いよいよ何も頼るものがなくなった。
・自分で仕事を探してお金を稼がなければならない。
・バンドもアユム以外には誰もいない。
そして何より辛いのが「高校生」といったような自分自身の社会的証明となる「肩書き」がなくなったこと。
いうなれば「バンドマン」なんて自分の主張に過ぎない。
傍から見れば「ただの19歳の無職の少年」でしかないワケだから。
そんな状況に飲まれると、バイトしている時はとても心地が良い。
「フリーター」とはいえ、会社に属して立派に働いてお金を稼ぐことができているからだ。
フリーターとなって右も左も分からないまま何も進まない日々が何ヶ月も続く。
そんなある日、アユムから電話が来た。
「俺、バイト先に就職するわ。」
「今の彼女とも結婚しようと思ってる」
唐突にアユムからリタイア宣告を受けた。
正直、そのとき僕は「あぁ、いいなぁ」と思ってしまっていた。
なぜなら、音楽を辞めるとはいえ社会的には立派に正しい方向に歩き出そうとしていたからだ。
なんとなく、僕は独り取り残されてしまったような孤独感さえ覚えた。
僕は地元の製本所や倉庫内作業員などで働きつつ、必死にメンバーを探す日々を送った。
地元の立地的に一番近い都会は池袋だったので、毎回メンバー候補と会うときは池袋だ。
金も大して稼げないまま毎日のようにバイト終わりに池袋に行ったり、家に帰ったら食事もまともに取らずに部屋にこもってカセットテープ型のMTR(いわゆるアナログのDTM機械)に作曲した音楽を録音したりといった生活が続いた。
当時の僕は、正直言って何の肩書もない「孤独」が本当に辛かった。
「大学生」や「会社員」といった何か大きな組織に属していることの安心感がどれだけ大きかったのかを身を以て知ることになる。
まさかの大学合格→大学生へ

10代最後の夏、僕は完全に路頭に迷っていた。
働いていたバイトもちょっとしたきっかけで辞め、バイトを探しながら日々を過ごす毎日。
当時僕は髪の毛が真っ赤だったので、当然まともなバイト先など見つかるわけがない。
バイト先の面接に行く。
「君のその髪の色さえなんとかしてくれれば、採用するんだけどねぇ〜」
こんな言葉を毎回言われる。
しかし毎回僕はそれを言われるたびに断っていた。
おそらく「赤い髪」であり続けることが僕自身が「バンドマン」であり、ただのフリーターではないんだぞ!っていう周りへの必死な主張だったのだと思う。
とはいえ、赤い髪を維持するのにも金がかかる。
美容院に行かなければならないからだ。
気がつくと、金がなく赤い髪すら維持できなくなり、見た目はただの19歳の少年。
そんな状態で地元の友だちの家に集まっては意味のないムダ話に花を咲かせ、気がついたらそのままみんなで泊まって朝という日々がずっと続いていた。
(あれ?俺バンドマンじゃなかったっけ?)
…と自問自答してしまうほど
自分でもわかるくらい完璧に「ただの無職の19歳」がそこにいた。
ある日ようやくバイト先が見つかった。
もう完全に金がなくなり手詰まりの状況に追い込まれた。
もはや赤髪はもちろん、金髪、茶髪すら妥協して
「お願いだからここで働かせてくれ」
という気持ちで臨んだ面接に合格。
晴れて「ドラッグストアの店員さん」になることになった。
そのバイト先はとても楽しく、
気がつくと「バンドマン」だったことを忘れてしまうほど、バイトに没頭するような日々を送り始めてしまう。
そんなある日、母が言った。
「お願いだから大学受験してみない?」
何を言ってるんだ?というのが正直な感想だった。
なぜなら僕は受験勉強なんて卒業してから一度もやっていない。
小学校時代に塾や家庭教師をつけられていたためか、そこそこ勉強はできる方ではあったものの、いくらなんでもNO勉強で受かるほど甘くないだろう・・・笑
という気持ちであったものの、母の懇願に負けて3校ほどなんとなく受験してみた。
・・・まさかの合格が1校あったのだ。
当然その合格を辞退するワケにはいかず、幸せなバイト生活を一旦中断させられながらも大学生活がスタートしてしまう。
思い返してみると
この時点で僕は「音楽」「バイト」「大学生」という三足のわらじを履いて生きていくことになった。
しかし大学生になったという喜びがあった。
なぜなら「大学生」という「肩書き」が手に入ったからだ。
当時の赤い髪だった僕は必死に「バンドマン」というアイデンティティを守り続けていた。
しかし大学生というアイデンティティが備わることで「俺はバンドマンだ、フリーターではない」というプライドはいつの間にかなくなっていたのかもしれない。
2浪扱いで始まった大学生活で得たものは大きかった

正直言って大学で学びたいものは何もなかった。
受験的に難易度が低そうという理由で適当に選んだ学部・学科だ。
そんな講義を学ぼうという意欲は申し訳ないが1ミリも持ち合わせていなかった。
当時の僕は上述の通り、バンドマンでありバイトもしており、大学生だった。
自他共に明らかにわかるほど、僕はそこらへんのピカピカの大学1年生とは人生経験豊富なアニキ的な感じだった。
(まあ事実2浪している時点で年齢的にもアニキなのは間違いないわけだが…)
僕自身、大学でやることは1つ。
バンドサークルに入ること一択だった。
なぜかというと、サークルに入る本当の目的は「本気でやっていけるバンドメンバーを探すこと」だったから。
そう、この時点でまともにバンドもやれていなかったのだ。
迷わず軽音サークルに入り、サークル最優先のキャンパスライフを満喫することになる。
自分で言うのもアレだが、
これからバンドを始めたいと思ってサークルに入ってきた子もしかり、先輩方と比べても、僕のテクニックや経験は圧倒的に差があった。
サークル内でメンバーを探していたものの、さすがにすぐに出会えることはなかった。
相変わらず雑誌のメンバー募集と並行して、当時携帯アプリでバンドメンバーを募集しているサイトがあり、そこを頼りに変わらずメンバー候補と会っては自然消滅を繰り返す日々は続いていた。
大学に入り、サークルに所属したことで自分の苦しかったバンド生活がネガティブからポジティブなものへと変化していった。
なぜなら自分の今までのバンド経験、バイト生活そういったものが同級生の大学生たちには肯定されたからだ。
救世主ともいえる二人の存在

大学生活が始まりつつも、僕としては
「バンドがうまく軌道に乗らないなら生きててもプラスじゃない。」
と、完璧に断言できるほどバンドに執着していた。
ある意味、本当にバンドがやりたいんだなと自分自身感じるものがあった。
前述したとおり、雑誌やアプリでメンバーと出会い、別れを繰り返す中
1度、全メンバー揃っての「人生で二度目のライブハウスのライブ」が実現した。
やはり、そのライブを最後にメンバーはそれぞれ散り散りになっていく予定だったが、1人ベースの男が残ってくれたのだ。
その男はサウスポーで、考えられないほど上手かった。
今まで僕は「メンバー候補」としてなら数え切れないほどのメンバーと音を合わせてきた。
もう「格が違う」とはこの男のためにあったといっても過言じゃないくらい、テクニックも知識も経験も圧倒的すぎた。
そんな彼(マサと呼ぼう)、マサが今度は率先してバンドメンバーを探してくれることになった。
やはり経験の違いなのか、僕の運の良さなのか
今度はマサと同じくらい経験のある女性ボーカルが入ってくれた。(マリとする)
マリがドラムを探してきてくれて、あっという間にバンドが形を作っていく。
ここまで苦労して何も成果をあげられなかった僕の活動って何だったんだろう…と思うくらい、ビックリするほどトントン拍子にバンドが加速していくことになる。
マリの作詞作曲がとにかくすごい。
すごいというか、早いし曲も良い。
そしてアレンジャーにはマサという存在。
そしてマリが今まで活動してきていたライブハウスを紹介され、千葉・本八幡にある某ライブハウスを拠点にこのバンドがスタートすることになった。
名前は「HONEY BLOOD」。
当時のメロコアやパンクの流行りに乗っかりつつもマリの歌唱センスとマサの激ウマテクニックがあったおかげで「インディーズ」の仲間入りを果たした。
今思い返すと、僕の運が良かったんだと思う。
普通にやっていたらこんな出会いはなかなかない。
自分でいうとダサイが、純粋な気持ちで「ただバンドがやりたい」という想いだけで今まで走ってきたことを神様が見てくれていたんじゃないか?と思えるほどの奇跡的な二人との出会いだった。
余談だが、「SLAM DUNK」の赤木キャプテンがずっと全国制覇を目指してがんばってきた結果、桜木・流川・宮城・三井が集まったのと、僕的には当時の自分がリンクしてしまう。
バンドは順調、そしてサークルの部長に就任。完璧な反面教師へ。

さて、HONEY BLOODが順調に活動し始めた頃、大学2年生。
この頃にはサークルの部長に就任することになった。
単純に、出席率の高さとギターのテクニックが誰よりもあるからという理由だ。
この頃の僕のバンドマンとしての生活は以下のとおり。
- 毎日基本的に大学
- 大学終わりに時間がある曜日にバイト
- 土日は基本的にバイト
- 毎週1回スタジオ
- 月1〜2回ライブ
しかも大学は埼玉の奥地にある。
そしてバイト先は吉祥寺だ。
バイトから通勤すると1時間半以上かかる。
そして帰宅はまた埼玉県の実家。
自分でもよくやってたなと思うほど激務だった。
しかしこんな激務を難なく続けられていた一番の理由は「ちゃんとしたバンドを組めていた」ということだ。
さて、大学でサークルの部長になった僕。
合宿やライブハウスでのライブイベントなど、わかりやすいイベントはすべからく実施してとても充実したサークル活動だったように思う。
しかし「部長」という立場に調子コキコキな僕はこうなっていった。
- 部長のクセに寝坊多発
言い訳でしかないが、多忙な生活によって校内のサークルライブなんかにも遅れるようになる。 - サークル内の女の子に手を出す
しかも1人ではない。1人目とこじれて2人目と付き合い、結果別れる。 - 当たり前に後輩の信用はなくなっていく
当時大勢を集めてその前で喋ることに不慣れだったのもあり、部長としての威厳は皆無。
幼少期の頃に語ったように「あ、俺今みんなから離れられていってるわ」という自覚は完璧に把握していた。
自分自身で楽しかったはずのサークルを居づらくしてしまった。
そして1〜2年生でサークルに重きを置き、講義をロクに受けていなかったツケが回ってくる。
3年生になった僕に「留年」という恐怖が見え隠れするようになる。
「二浪・一留年」というエリートコースはさすがに歩むわけにはいかない。
3年生の頃には部長は後輩の2年生に代わり、僕以外の同級生メンバーも自然とサークルにはあまり顔を出さないようになっていくため、僕もそのままサークルはフェードアウトしていった。
この頃になると、「HONEY BLOOD」は解散し「mellowsgarden」というバンドに加入することになる。
(のちに、このバンドで形式的なメジャーデビューを果たす)
「留年」が見えてきているにも関わらず、
バンドが順調に進むにつれて、大学への出席率はグングン落ちていく。
大学に行ってもただ休みにいくだけの場所と化していた。
出席カードをもらって友だちと喋っていたり、単位の計算をしつつ、落としても大丈夫そうな講義の日は友だちとスロット三昧なわかりやすい大学生になっていた。
そして4年生にして120単位以上残し、1年間のうち1単位も落とせないという壊滅的な状況に追い込まれる。
当然サークルなんて「サ」の字もない。
結果、無事に単位を落とすことなく卒業し、サークルも特に何も好転することなくサラッと「元部長」は消えた。
大学生活において、サークル活動で得たものは非常に大きかったように感じる。
それは、「組織の上に立つ人間の難しさ」である。
サラリーマン時代、店長やSVといった立場を経験してきたが自慢じゃないが圧倒的な結果を残せた。
たぶん僕が店長として優秀だったのは、サークル時代のクソ部長経験が反面教師として生きたからに他ならない。
・・・ふう。
ここまで読んでいただき、本当に感謝したい。
以上が僕の幼少期から本格的にバンドマンという人生を歩み出すまでの「点と点」でした。
こうして僕のバンド人生は25歳という年齢に差し掛かってようやく順調に歩き出した。
紆余曲折ありつつも、他人から見ても「バンドマン」と認識される人間に到達することができたのだ。
思い返してみた結果、僕は「考える」ことと「運の良さ」が自分を形成していると感じた。
イジメを経験し「なぜ僕はこういう目に遭ったんだろう?」と考え、
取り柄のない自分が嫌で「何か自分を変えたい」と考え、
アユムという友だちによって「音楽とギターに出会う」という幸運、
自己を守り続けるために「赤い髪」であることに拘ったり、
マリとマサという最高の出会いがあり、そこからつながっていくmellowsgardenというバンドとの出会い。
これらは紛れもなく「運が良かった」と言わざるを得ない。
ここまで読んでくれて本当にありがとうございました!
ここから先は、
僕がどのようにフリーターとバンドの両立から今のような「音楽を仕事にしつつ自由な生活」を送るまでに至ったのか?
こちらを話していきます。
僕の音楽活動がどのように山あり谷ありと続いていき、
どのように「ビジネス」「マーケティング」といったジャンルにたどり着いたのか?
この後編は新たに誕生した「ビジネスサイト」の方で詳しく話しています。
ぜひ、このまま以下かた読み進んでくれたらウレシイです!
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