基本情報
- バンドプレス運営
- らいぞう
〈実績〉
- 自身が加入していたバンドが会社を立ち上げ、メジャーを経験
- ライブ本数1000本以上
- 某映画のオープニング、エンディング楽曲を制作
- 某TVドラマの劇中歌アーティストのプロデュース、
エンディング楽曲を提供。
→映画、TVドラマの詳細はこちら - その他、地下アイドルやアマチュアアーティストへの活動サポート、
楽曲制作などを手掛ける - ウェブマーケティングを学び、ブログ・メルマガを開始。
→月間たった5000PVで月収30万円を達成 - コンサル生も同じくして月間約3000PVで3万円の商品販売を達成
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「らいぞう」という人間がどうやって作られていったのか
生まれた頃の記憶までさかのぼって鮮明に晒しています。
「僕」という人間に興味を持ってくれたら、
ぜひ、1つの読み物として読んでくれたらうれしいです。
幼少期〜小学生時代:わがままな世間知らずのいじめられっこ
僕は東京で生まれ、埼玉で育った。
一人っ子で、両親は共働き。
父親は測量士で母親は看護師だった。
そのため、毎日ばあちゃんと一緒に遊んでいた。
いわゆる「おばあちゃん子」だったのだ。
僕の最初の履歴書は幼稚園だ。
送迎バスで10分ほどの場所にある幼稚園。
毎日15時頃、幼稚園の送迎バスが自宅すぐそばにあるラーメン屋の駐車場に停車し、僕を降ろしてくれる。
そこで待っているのは必ずばあちゃんだ。
そしてばあちゃんは、僕のズボンが着替えられていないか必ずチェックしていた。
これは、僕が幼稚園でションベンを漏らしていないかの確認だ。
たしか3歳の頃に幼稚園に通うようになったと記憶している。
そのときまで、僕はきっと甘やかされまくって育ったのだろう。
僕は一人でトイレでションベンをするということがおそらく出来なかったんだと思う。
そのため、幼稚園に行っても漏らすことしかできず、
そして「一人でトイレを済ませられない」ことをばあちゃんに伝えることもできず、毎日ばあちゃんから母親に「今日もお漏らししたわよ」と報告されていた。
それが僕の幼稚園でのもっとも古く、苦い記憶だ。
小学校時代。いじめを経験する。
やがて小学校に進学すると、
幼稚園で関わっていた友達とは離れ離れになってしまう。
完全なるアウェイの地に、何もわかっていないガキが通学することになる。
当時、本当に内気で一般的な常識というものを知らなかったのでしょう、なかなか友達と仲良くなることが出来なかった。
今覚えているのは、
毎日休み時間のときは一人でタイヤ遊具でジャンプして遊んでいたこと。
そして着地のタイヤを踏み外して膝にエグめのかさぶたを作っていたことを強く覚えている。
学校が終わり、
下校時、友達と一緒に帰るには帰るんだが
どうやって声をかけたらいいかもわからない。
なので、なんとなく同じクラスの子たちが多く集まっている集団にくっついて帰っていた。
「おい!あいつ誰?」
「知らないやつが着いてきてるぞ!w」
こんなことを言われていたのも覚えている。
でも、僕からしたら
なんでそんなこと言われているんだろう?
そう考えるも、答えはまったくわからない。
なんで幼稚園の友達みたいに
仲良く接してくれないんだろう??
・・・という気持ちもありつつ、
イマイチ腑に落ちないまま家に帰り、
ばあちゃんが優しくしてくれることが逆に悲しくてよく泣いていたのを覚えている。
これが小学校に進学して間もない頃の記憶だ。
で、ここからは僕の推測だが、
こういう経緯でいじめに遭ったのだと思ってる。
小学3年、4年となってくる頃、
さすがに友達と呼べる人間も増えてきて、
いろんな友達が家に遊びに来るようになった。
遊びに来た友達には
ばあちゃんはとても良くしてくれた。
たぶん僕が友達に嫌われないように、
精一杯いろいろやってくれたんだと思う。
友達とファミコンで遊んでいるとき、突然お菓子をまかなってくれたり、どこかに遊びに行くなら何かおやつをくれたり。
そして当時はファミコン全盛期。
僕もファミコンソフトを何本かカバンに入れ、
友達の家に遊びに行ったりもしていた。
しかし僕は友達と遊ぶためには
何を持っていったら喜ばれるのかもわかっていない。
一度持っていって好評だったソフトを
毎日毎日持っていったのを覚えている。
「おまえ、またソレ持ってきたのかよ!」
友達からすれば当然だ。
それ昨日もやったじゃん!的な感じ。
しかし僕からすれば
「なぜ僕はこんなことを言われたんだろう?」
と考えるしかなかった。
こういう友達とのすれ違いが学校内で多々起こり、
ある日、明らかに友達の態度がいつもと違うことを感じた。
いわゆる「無視されてる気がする」という感覚。
僕はソレに対して
「どうして無視するの?」と言っても
友達からは「無視なんかしてないよ」と返ってくる。
しかし僕としては何かが違う。
今までの友達が接してくれたものと何かが違う。
ここでわかることは
僕は異様に考えすぎる性格だったと分析している。
そして、嫌われないために自分が多少犠牲になってでも友達の輪に混ざろうとする、そういう人間だった。
無理している自分にもツライし、
それでも別に友達とすごく仲良くなるわけでもなく、ツライ。
むしろ逆にそれがかえって友達との関係性を悪化させる。
そして、小学校5年だったかな。
よく遊んでいた友達と同じクラブに入っていた。
たしか「科学クラブ」みたいなやつ。
理科の授業の延長のようなもので、
正直今の僕も、過去の僕も1ミリも興味がない。。。笑
これも、別に入りたくて入ったわけじゃなく、
友達と長く一緒にいるために入ったのを覚えている。
そしてある日、
学校の授業が全部終わってクラブに向かう。
科学室に向かう途中、なぜか僕はその友達に殴られた。
一方的にボコボコにされた。
で・・・
痛いのは別にどうってことなかった。
なぜこんな目に遭わなきゃならなかったんだろう?
なんでこんな思いまでしてココに来てるんだろう?
そういう思いが一気に溢れて
クラブの時間中ひたすら泣いて終わったのを覚えている。
余談だがそのとき、クラブ担任の先生も
何一つ声をかけてくれることもなかった。
「ガキがなんか泣き出してるよ」
「めんどくせぇなコイツ」
くらいに思っていたんだろう。
今の僕がその先生にお会いしたなら、
「なぜあのときお前は俺に声をかけてくれなかったのか?」
という議題で何時間でもディスカッションしてやりたいと思う。
こうして、10歳前後の子供が
「なんで僕はこういう人間になったんだ?」
と、一人で部屋で泣きながら考えていたのを強く覚えている。
中学受験〜私立の中学へ進学:いじめの総括。「考える」人間になった時代。
両親は共働き。
正直言って母親は僕が普段どういう学校生活を送っているのか
あまり把握できていなかったはずだ。
ばあちゃんがもっともよく知っていたはず。
そんな母親は、
なぜか知らないがいわゆる「教育ママ」的なマインドだった。
きっとこれも
「息子が将来苦労しないように」
という優しさからきているんだと思う。
ある友達のひとりが「塾」に通っていた。
僕や友達の家の位置からバスに乗って10分。
そこからさらに電車で1駅先にある「志木駅」という場所にある塾だ。
ソレに感化された母親が
こともあろうにその塾に僕を入れ始めたのだ。
とにかく僕は対人恐怖症に近いレベルで
見知らぬ人間に会うのが嫌だった。
しかし僕は逆らえず、、というか
逆らう方法がわかっていなかった。
今考えれば
塾なんてバックレて行かなくなれば済む話なんだが、バカ正直に通っていた。
それこそバスに一人で乗るのも初めて。
電車に一人で乗るのも初めて。
変なところに着かないだろうか??
慣れるまで
とにかく通学が恐怖でしかなかった。
やはりここでも「いじめ」に遭う。
そう、塾でもやはりいじめに遭ったのだ。
とはいえ、
塾内でも友達はわりと多くできるのだ。
塾以外の日に予定を合わせて一緒にゲーセンに行ったり、
はたまた自宅に招待したこともあった。
しかしどういうきっかけからか、
仲が良かったのに「いじめ」に発展する。
未だに覚えてるし、許せないのが塾にいた1人の教師。
僕はあるとき「らいぞうちゃん」と「ちゃん付け」され始めて、ソレが嫌で反応したら逆に面白がられていじめに発展していった。
それがわかっていながらなのか、
その教師まで出席の際に「らいぞうちゃん」と呼び、
クラスの笑いものにされたのを未だに覚えている。
科学クラブの先生同様に、
もし、今どこかで彼に会えるのなら
動画を撮影したまま当時のことを振り返っていただきたい。
さて・・・
いい加減僕はわかってきた。
「友達は毎回できるんだ」
「でも、どこかで関係をこじらせる」
「これ、確実に俺に問題があるぞ」
「でも、何がダメなのかわからない」
「なんだろう?何がダメだったんだろう?」
こういう風に「考える」ようになっていった。
個人的に「いじめ」が考える主題だったので
友達に相談という選択肢が自然と無かった。
だから、自分で考えて
自分なりに正解をみつけるという
トライ・アンド・エラーを身につけていたに違いない。
こうしてクソみたいな塾では
当たり前に「中学受験」を目指す人間が9割以上。
必然的に僕まで受験を強いられる。
しかし僕からすれば
中学受験ということは学校がまた変わる。
ということは
また全く知らない人間たちと学校で過ごさなければならない。
また同じような目に遭うんじゃなかろうか・・・??
という恐怖の方が強かった。
- 幼稚園でのションベン事件
- 小学校、塾でのいじめ
母親やばあちゃん、友達から
自分が意図しない反応が返ってくる。
しかし解決策として誰かに相談するということをしなかった。
というか、できなかった。
それによって
「なぜ?」を自問自答する性格になっていった。
しかし母親に言われるがまま、受験へ。
全部で3校に受験した。
1つは第一希望だった学校。
若干偏差値的にはハードル高めの学校だった。
残り2つは、偏差値的にセーフティーラインに入っていた学校。
結果、まず最初に受けた1校が落ちた。
この知らせを聞いたときの母親が
「もう公立でもいいか・・・」
みたいな、すでに見放すようなセリフを言っていたのを覚えている。
いやいや、もとから俺は公立でよかったんだけど!
…と言いたい気持ちを抑えながら、残り2校の受験に臨む。
結果、2校とも合格だった。
しかも第一希望ともう1つが合格という結果。
母親からすれば進学先は一択だ。
第一希望の中学校だ。
しかし僕は、もう1つを選んだ。
なぜかというと
第一希望は「男子校」だったからだ。笑
中学目前ということは
少なからず異性に色々とモヤモヤしてくるワケ。
さらに「男子校」というだけで
いじめが激化したらたまったもんじゃない、
そのうえ女子がいないとか、刑務所かよ?
という気持ちが強く、
ここだけは母親の強烈なプッシュにも負けず、もう1校に進学した。
ここに進学していなかったら
「らいぞう」というギタリストは間違いなく生まれなかった。
中学時代〜高校時代:青春の謳歌、非行、音楽への目覚め
初めての中学校。
今まで通っていた小学校を通り過ぎ、
そしてその途中大きめな川がある。
そこを車が横断できるように坂道になった道路が広がっている。
徒歩や自転車なら、
まさに「心臓破りの坂道」である。
そんな坂道をのぼり切ったところにバス停がある。
そのバス停から吉祥寺まで行くのだ。
埼玉から吉祥寺なので、マジで1時間かかる。
特に思い出すのが、
バスの中で腹痛い事件だ。
僕の家庭は必ず朝ごはんが出されていた。
軽く食べ、出発するんだが、
そのせいなのか、バスの乗ったあたりでちょうど便をしたくなる確率が上がる。
いかんせん、
腹が痛いからと言って近くにトイレがない。
なぜなら電車ではなくバスだから。
途中下車したところで
運良くトイレがあるわけがない。
当時は「コンビニはトイレを借りれる」ということもなく、
マジでどこ行ってもトイレはない。
そのため、
1時間本気で我慢したことが度々あった。
たぶん客観的に見たら
中学生っぽい子供が明らかに座って苦しんでいるんだ。
なのに一度も声をかけられることはなかった。
あの経験があったからこそ、
僕は電車でもバスでも困ってそうな人には積極的に声をかけるようにしている。
さて・・・
中学校でも人見知り爆発だ。
僕は毎朝両親が出かける時間に強制的に起こされるため、
遅刻することもなく、むしろ登校時刻はかなり早い方だった。
そうすると、毎日早く到着している同級生1〜2人と教室で出くわすことになる。
当然目が合う。
しかも、かなりかわいい女子だった。
にもかかわらず、
僕は「おはよう」という声をかけられずにいた。
・・・というか、
「こういうとき何て話しかけたらいいの?」
と、綾波レイ並みにわからないでいたのだ。
小学校でもたぶん「おはようございます」は先生の朝礼でしか言っていなかった。
だから逆にそういう時にしか「おはよう」という挨拶は言わないもんだと思っていた。
ここまで書いていて、
これが事実だという情けなさと、
どこまで常識知らないんだお前は…という気持ちになって今書いています。。。
・・・なので、
せっかくかわいい女子とほぼ二人きりにもかかわらず、
目が合ってそのまま無視して自分の席に座る…という非常に態度の悪い朝を積極的に行ってしまっていた。
※その後もその女子と仲良くなってどうのこうの…という発展には一切至っていない。
こんな具合で先が思いやられるスタートを切った中学時代。
ここでもやはり「いじめ」が勃発する。
「またか・・・」
という気持ちだ。
原因もあまりわからない。
ただ、小学時代と共通しているのは
過去に友達で自宅に遊びにきたり泊まりに行ったり来たり、そういう間柄だった奴らからいじめに遭う。
つまり「元友達」だった相手からいじめに遭うわけだ。
さらに中学生になると「思春期」という時期だ。
僕が通っていた学校は制服がなかった。
「私服」通学だったのだ。
だから、服装の見た目である程度どんな奴か想像できるというオプションがついている。
当時、徐々にイキリ族の血を発動し始めていた僕は
見た目のファッションもそれっぽく流行に乗ろうとして乗り切れないようなファッションだった。
それがリアルイキリの、いわゆるカースト上位の連中の目に留まり、
やたらと絡まれるようになる。
こうなってくると、
いじめを通り越して「シバかれる」という表現が適切な行動に変わってくる。